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世代と街の境界

職場でテレビをつけて「スーちゃんが!」と叫んでいる人がいて、それを聞いて「そうか、三國さんがついに……」と若い衆は思ったそうです。キャンディーズねえ……。
ウチの実家は、テレビが入るのが遅かったもので、私の記憶では正直、ピンクレディーを見たかどうか? ぐらいなのでありますけれども。自分のすぐ上の世代が親しんでいれば、自然馴染みもあるわけで。
そのすぐ上世代の面々が、食い入るようにして訃報を伝えるテレビ画面に見入っているのが印象的でしたね。
「最後の夫婦のやりとりは」と聞かれて「もう少し秘めていたい」と答えた(若干うろ覚えですが)旦那さんの会見が胸にくるものがありました。そうですよねえ。
人間のはかなさを感じることも多いですけれども、同時に生き抜いて刻まれた個人の領域というものの深さと重さをあらためて信じてみる、尊重してみる、そういう機会でもありますね。




道路の上に高架道路がある、という光景は、都会に住んでいると当たり前ですけれど、たまに田舎ものの精神が顔を出すのか、違和感のようなものに圧倒されることがあります。
先日、三軒茶屋から渋谷まで歩くと、横合いを延々と高架道路がついてきて、なんともいえないその威圧感の正体を私はずっと探しあぐねておりました。
沿道に居並ぶ個人商店のどこかのどかな風合いとの対比、というのもあったかもしれません。正直地震のあとだから、頭上に被さる大質量を意識しているというのもあります。
ただその樹脂とコンクリに覆われた肌合いにひかれる心もある。脈動する大河を眺めているような、大きなものに対する個という誇らしさもある。
複雑なものです。思うに、そんなもの都会にはめずらしくないけれど、高架道路はまず目的ありきでオブラートに包まれていない。飾られてもいないし隠されてもいない。人間の手をおそれる小動物の精神、そういうものに訴えかける力がそのまま露わになっている。身近に存在する「そういう場所」なのかなーと。
道玄坂の入り口で折れると、高架の高速道路はそのまま渋谷駅の方角へ向かってうねるように街中を進んでいきました。
妙になまめかしいというか、動的な印象もあるのです。走っているのは車なのですが、あれはそのものが息づいて都会を流転しているようにも見えます。じっとして動かないように見える動物の、わずかにゆれる耳や尻尾みたいなもので、無機質なくせに活動の証明になっているんですねえ。
……おおイミフイミフ。




それはともかく選挙戦やってますね。都知事選では自粛ムードだったのに、今回は街宣車バリバリ。
この前、近所を歩いていてその街宣車が一台、追い抜いていったのです。
「○○町の皆様の、あたたかなご支援に……」
などとのたまうその行く手には信号があります。その交差点を過ぎた瞬間、
「××町の皆様の、あたたかなご支援を……」
いや切り替えのあざやかさに感心しました。たぶん町境になっていたんですね。
録音じゃなかったっぽいし、ウグイスさんやるものです。まあその候補者が誰だったかなんて、まるで記憶に残っていないのでありますが(笑
by sarok | 2011-04-23 14:58 | 雑記 | Trackback | Comments(0)

そこそこ年季の入ったマリみてスキーの、やるせない日常アレコレ。


by sarok