四畳半東雲蚊帳の内

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腰痛

ラクガーキ。
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適当に適当を重ねても適当なものにしかならんという証明みたいなものでありけり。
アホ毛に祥子さまの名残りが見える。


本日26日開催の東方イベント・例大祭にちょっと顔を出してみようかな、などと思っていましたが、絶賛腰痛中にてそれも叶わず。
腰っていうか大腿部ですな。右足付け根あたりの筋肉に違和感があって、どうかするとギリリと痛みます。
この2,3日足を引きずっていましたが、今日あたりはちょっとマシになってきた感も。でもまだ痛い。
理由がわからないのが厄介です。捻ったり段差に躓いたりした覚えがない。まあ以前、足首が腫れて捻挫かと思っていたらまるで違う病気だったこともありますから、今回もわからんのですが。
普段の姿勢が悪いうえに、もともと貧相な肉体が災いしているのか、ちょっと油断をすると各所がトラブりますね。散歩を趣味としているのは対策のつもりでもあります。
しかし筋力というのは、あれは若いときの鍛錬しだいなのか、えらく個人差がありますね。私よりもずっと運動が足りず、歩くのも面倒くさがってエレベーターやエスカレーターに頼りきり、という同年代の知り合いなども、重いものを持ち上げて堪える様子もなくピンピンしとります。私なぞちょっと足腰に負担をかけるとなれば、手足をほぐしてから姿勢に気をつけていないとすぐ酷い有様になってしまうというのに。
体が硬いのも一因でしょうなあ。学生時代から前屈とか、ぜんぜん床に届かなかったもんなあ。


暑くなってまいりました。今年もさっそく、あの黒くてすばしこいヤツと邂逅し、撤退に追い込んでおります。
しかしなんだ。私も確かにあの虫、具体名を書きたくないくらいには苦手ではあるんですが。
先ごろ団長にお借りして読んだ『テラフォーマーズ』、あれはとても面白い漫画なんですが、ここまで「ヤツ」の生理的嫌悪感をば拡大膨張させてみせなくたっていいじゃないか、と思うことも(笑
その「擬人化」があの漫画の上手さではありますが。しかし我々の日常で遭遇するヤツらは、見ようによってはもうちょい愛嬌あるぜと、ちょっと弁護したくもなるのです。
ええ。見ようによっては。
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by sarok | 2013-05-26 13:06 | イラスト | Trackback | Comments(0)

ぬかるみに落ちた

一滴の油、という表現をある本の中で見つけて、ハッとしたのです。
そういえば子供のころ、そこらへんで見かける水たまりには、虹色の膜がすかして見えたものでした。
今でもそれはあるはずですが、あんまり見かけなくなった気がします。かつて車の通る道にできる水たまりは大概そうだったと、私の記憶が覚えているのです。
これの意味するところは何か。

1.今でもあるが、自分の背の高さが変わったから水面に見入る角度が違ってわからなくなった。もしくは、そもそも水たまりを注視していない。
2.エンジン・オイルの残滓がそれとして、車の整備状況や性能の向上により、下に落ちる油分はほとんどなくなった。

ひとまず二つの可能性を思いつきました。番外としては、

3.道がよくなったから、水たまりそのものが減少している。

というのも否定できません。
我ながら暇人の思考ではあります。ただ私が面白いと思ったのは、時をおいて実は変化している(かもしれない)状況を気づかず、昔っからそうであったかのように納得に加担する意識の働きであります。
一方で「何度見ても慣れない」というものもあります。しかし、今見ている現況を当然として過ぎた記憶を更新するこの働きは、自覚しているよりずっと強いのではありますまいか。
江戸時代の人ももし現代に暮らせば、「そういえば電柱ってなかったんだっけ」とひと月ぐらいで言い出しそうな気がするくらいに。


さておき、この日本一どうでもよさそうな考察の答えはあるのでしょうか。

4.気のせい

もちろんこれもあり得ます。
……水たまりなんてものに目を向けなくなっていたのは事実でしょう。というよりむしろ、子供の私の見ているものは今とまるきり違っていたというべきでしょうか。
道の状態は確かに昔は悪くって、雨が降ればあちこち大きな水たまりができていました。中には長くとどまるものもあって、小さな池といえば言いすぎですが、うっすら藻が生えているようなのも珍しくありませんでした。そういった場所を覗くのは密かな楽しみでした。何か小さな生き物が見られるのでは、と。
擬似的な水場としての楽しさもありました。社宅の庭などで、ホースで水を溜めたり川をつくって流したりして遊ぶのも好きでしたね。親に見つかれば怒られるんですが……。たまに海など行けば潮溜まりで生き物を探したりするのが最高に楽しく、その追体験できるという意味でも、水たまりは何かとワクワクさせてくれる場所だったように思います。
一滴の油、はこういった一切合財を思いこさせてくれました。
記憶というのはやはり、年を経れば忘れていくのと同時に、それこそ引き出しにたとえられるように、整頓されラベルをつけられる過程にてディテールが省略されたり、また想起する際に足りないところを勝手に補ったり、そういう処理が頭の中でなされている。変動的で流動的なシロモノなのかもしれません。
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by sarok | 2013-05-11 13:00 | 雑記 | Trackback | Comments(0)