四畳半東雲蚊帳の内

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荒川

女房子供を質に入れてでも続けたい趣味といえば、私にとっては散歩なのですが、そもそも居ないだろ、という点を自己憐憫したとしても、さいわいお金も手間もかからずリスクも少ない趣味であるのはありがたいことであります。
けれど、少なくとも二十台、もしくは学生の時分は一味違った。
あてもなくふらふらさまよい歩くのが、私の散歩の欠くべからざる一要素なのですが、近年はそうでもありません。
今日はちょっと気合をいれて長くふらつこう、と思ったとして、それでもある程度方角を決めるし、周辺マップも意識する。どういった道順をたどってどの辺にたどり着こう、ということを、なんとなく考えてしまう。これは、経験の蓄積もありましょうが。
これが若いころは違う。本当に何も決めず歩き出すのです。しかも夜中。
なるべく知らない方へと進むから、余計に迷います。30分くらいで戻るつもりが二時間、三時間かかってようやく「方角がわかる」。
そこから帰るんだから、若いとはいえけっこうヘトヘトになったものです。
まあそれはそれで、今にして思うと純然たる散歩の美学にはやはり背いて、私は別の何かを目的にしていたようでもありますが。



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先日は荒川河川敷をふらりと。



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浦和の南か西か、人工の貯水池があったりして、そのせいもあってかやったらめったら広々とした流域であります。
多摩川の河川敷をよく歩いてますけど、その2,3倍はありそうだったなあ。



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ちょーカッコいい水門。
でかいんですな。近くで見ると、宇宙船の艦橋にしかみえない。



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面白い雲。悠然と泳ぐ、竜の横っ腹みたいです。



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秋の日は釣瓶落とし。



……で。
ここから後が大変でした。
最近の散歩のパターンで、この日もあらかじめ、ある程度こういう風に歩こう、というつもりがあったのです。
今は亡き地井武男氏に敬意を払い、ひと駅歩いてやろうと。具体的には、荒川を渡って武蔵野線新朝霞の駅まで。
武蔵野線はこのあたりずっと高架でわかりやすいし、線路を目印に歩けば何も難しいことはなかろうと高をくくっておりました。
ところがまず川を渡るのが厳しい。線路づたいに来ると大きく離れて上流か下流にしか、人の通れそうな橋が見当たりません。
やっとのことで、上流の赤い橋にたどりつくと、河川敷の真ん中まで移動しているから、もう一度橋の根元まで戻らないと上がれないときた。
下の二枚の写真は、橋の上からですね。
しかし、難関は渡ったあとでした。道がわからん。ついでに、線路をたどろうにもそっちに道がない。
日はすぐに暮れて真っ暗になります。武蔵野線は確かに高架ですが、運転間隔が首都圏の鉄道にしては長いので、そんなに頻繁に通りがかってくれず、うっかりすると線路を見失う。
バス停やらの表示をたしかめてジグザグに歩いて、どうやら方角はつかめたのですが、すると今度は朝霞の浄水場が、巨大な敷地で立ちふさがります。周辺地図を見つけて確かめるに、迂回しないことには駅に着けないっぽく。
いやはや。ひさしぶりに、さまよってるなあ、と思いましたね。
別に家々のない山の中じゃなし、コンビ二や商店だってある。駅へとつなぐバスもあるわけだから、ピンチでもなんでもないのですけどね。
漠然とした不安と、その不安と共存する長い時間。
たぶんそういうのが、かつての私が求めていた何かだったんでしょう。

そも、ひと駅区間としては遠かった。
武蔵野線はスピードが速いうえ、たしかこの区間は5分と書かれていたから、距離が遠いのはわかりきった話だったんですけどね。
果たしてほんとに経験が蓄積しているのやら。
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by sarok | 2012-10-28 12:07 | 写真 | Trackback | Comments(0)

うわ YOUJYO つよい

ちっちゃいおんなのこを抱きしめちゃいました。


まあ、そうです。ただの夢の話ね。
……と書いて、ろくな言い訳にならないことに気づきました。そういう夢をみた、ということではあるのだからね。
まあしかし、私にしてはそれなりに筋書きのある夢ではありました。
舞台は、どっかの専制的体制の国家。独裁といってもいい。
国王だか皇帝だか、ともかく国の頂点に立つ者の、実の親ではないが乳母的な存在の女性が、何かの罪に問われます。
何の罪なのかは不明なのですが、自由主義の政治体制下ではおよそ罪を問われないようなことらしいのです。
で、私の視点がどこにあるかといえば、立場は不明ながらただのオッサン。太めで眼鏡をかけている。およそうだつの上がらない風采のくせ、勇敢にも捕らわれる寸前の老女を救い出して、国外へ脱出するのです。
……精査に記憶をたぐると、アクション俳優のごとくちぎっては投げ、ではなくって、その君主に直談判して、適当な理屈で言いくるめていたような。「こういうことが公になると不味いですよ」とネチネチ弱点をついてね。
無事、脱出をしてとなりの国から振り返ると、そこは夢です、独裁国家の巨大な宮殿が見えている。宮殿というより碁盤状に四角い建物の並んだ、基地みたいな印象でしたが。
しかし、なぜかその乳母さんはせっかく抜け出した国に戻るのです。命の危険を顧みず。
たとえ悪法に基づき自らを罰しようとしていても、かつて慈しんだ情ゆえでしょうかね。
で、ふたたび謁見と相成ると、以前は姿を見せていなかった君主があらわれる。走り出てくる。
こんな感じ。

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なんとゆーか。黒髪ロングで小学校高学年くらい。王様のはずなのに黒のトックリセーターにジーンズ、というあまりに地味な格好をしておられます。
彼女もまた、乳母である老女を慕っていたのです。でも王様だから、法に背いた以上は罰せねばならない。でも本当は、帰ってきてくれて嬉しいわけです。テンプレ的ツンデレ顔のまま、まっしぐらにこちらの腕の中に飛び込んでくる。
……オカシイですね。私はオッサンだったはずです。でもこの場面では、乳母的な老女の中に視点が移っている。
夢のくせに、しっかり抱きしめた感触までありましたヨ。
それでめでたしめでたしではなく、どこかまだ緊張した雰囲気があって夢は終わったんですけれど、この体験をもって十分にハッピーエンドですわな。





しかし……こういう夢をみるたびに「秘めた本質」だとか「無意識の願望」だとか、なんだか妄信しちゃってるところもありますけれど、果たして本当にそうなんですかね。
目覚めている間の心の動きには鈍感なくせに、夢でみたからとそれが「本心」であるかのように受け取る人は、世間にも多い気がします。
私自身、そういうところがある。無意識に発露された真意であると、なかば天啓のように思い込むところがありましたが、一方で自らを偽り、誤魔化すのも心の働きです。夢だからと疑いなく受け取るのは、いかがなものか。
むしろ、起きている間に自分自身のしっかりした操縦者足りえていないから、自覚的な心の動きから目をそらしているから、そうやってこぼれてくる断片的情報に、「真実の私」という虚像を見てしまうのかもしれません。
起きている間はちゃんと自分の声を聞いてろよと。

……まあつらつら書いたところで、ヨウジョを抱きしめる夢をみた事実は動かしがたいわけですが(笑
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by sarok | 2012-10-21 14:48 | イラスト | Trackback | Comments(0)

み、みず

前回日記に書いた署名は正しくは『鬼の研究』でしたね。
今はまた天狗の項など読み進んでおります。


にわかに秋が浸透してきましたね。
夜空を見上げればオリオン座が浮かんでいたりして。四方をとめる星のひとつは寿命と危ぶまれていたはずですが、まだ大丈夫なのかな。
まあ宇宙の時間的スケールの話ですからねー。
私の中では冬の空の象徴なのです。いよいよ今年も残りわずかになってきたなあと、しみじみ感じますね。
紅葉もまたのんびりしているとすぐ落ちてしまうから、休みの際などなるべく出歩きたいところですねえ。




夏が終わりということで、虫の季節も終盤、苦手な向きはホッとしているところかと思います。
まあつい2,3日前、カナブンが部屋に飛び込んできて思うざま頭上でブンブンいわせてくれましたけどね。
あいつらはなんであんなに飛ぶのが下手なんだろう。正確には、着地が。壁にぶつかってしがみつくか、落ちる以外の着地方法を知らないんだろうか。
弱った蝉が必ずひっくり返っているのと並び、常々私の疑問に思うところです。創造の神様はもうちょっと情けがあってもいい。
ところで最近気がついたのですが、屋内など飛び込んできた虫が、しばらくするとぐったりして、物陰でじっとしていたりしますよね。
寿命なのかと思ったりして、実際朝になれば冷たくなって(比喩的に)いたりするわけですが、アレの大半の理由は実は喉の渇きによるものではないかと。
……虫ってのは何を考えているかわからんもので、鳥や小動物みたいに慣れて手乗りで餌を食べたりはなかなかしないし、飼っている状態でも餌をいれて放っておけばいつの間にか食べていたり、いなかったりする。
まあそういう感じで、「こうしたい」というはっきりした意図を感じさせる行動をとることはまれです。
しかし、水が足りないときの乾きは、われわれと同じく相当に堪えるもの、なのかもしれない。今までに二度ばかり、それこそむさぼるように水を欲しがるところを見たことがあります。人の手の上だろうとおかまいなく、夢中になって飲むのです。
つい先日も、職場の机の上にお腹の大きな羽つきのアリがじっとしていました。
明かりにつられて入ってきたんでしょうが、飛ぶどころか歩くのも大儀そう。
休日なので職場の人口密度は低く、しばらく放っておいたんですが、どこにも行ってくれない。で、水でもやってみるかと。それ以外の理由で弱っているなら、どうしようもありませんしね。
洗面所で手をぬらして、ためしに顔の近くに水溜りをつくってやる、と……。
もう即座に飲むのです。自分の体ほどの水溜りなのに、みるみるそれが減っていく。もう2,3滴追加してやりました。触角を振ってごくごく(比喩)飲んでいます。
その後窓際においておいたら、いなくなりました。街中ですし生き延びたかは不明ですけれど。
そこでふと、幼少時からの体験をいろいろ反芻すると、前述のカナブンみたいにチョー元気! と活発なときに手に乗せると、その体にはそれなりの重さがあるのです。けれど、弱ってじっとしているときは軽い。紙細工みたいにスカスカの印象です。何が抜けているのかといえば、やはり水分なんじゃないかと。
虫の体といえどあれだけ飛び回るのには相応のエネルギーがないと嘘だと思っていましたが、それを支えているのはつまるところ水なのではないか?
以上、何の裏づけもない、取るに足らない観察の結果であります。
だからといって、寿命かと思う前に水をやってみましょう! とキャンペーンをぶつつもりなどありませんけどネ。
秋の虫の鳴き声に耳を傾けつつ、おまえら水も飲めよ! などと思う秋であります。
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by sarok | 2012-10-13 16:14 | 雑記 | Trackback | Comments(0)

内在

よく雨に降られます。なんか去年あたりもそんなことを書いた気がしますが。
傘のないときにね。
都心の移動はすぐ駅に入って電車に乗ってしまうので、パラパラ降ってきたところで「仕方ない、ビニール傘を買うか」とはなかなかなりません。
なので問題は、最寄の駅から家までの十分少々の道のり。
ケチくさい話ですが、「ここまで帰ってきたんだから」いまさら傘を買うなんてのもなんとなく癪に障るわけです。
ことに夕立みたいな雨なら、まあすぐに弱まってくれるだろう、と見越して歩き出して。
途中で勢いを増した中で呆然とするわけです。
昨日はちょっと濡れただけでしたが、先月あたりにこのパターンで、みごとなほどの濡れ鼠になって家まで帰り着きました。
まあ、夏でしたから、いいんですけどネ。
「雨の中、傘をささずに踊る自由があっていい」的な某巨大ロボットの操縦者の名台詞を思い出しますが、確かに、学生時代など、友達同士で雨に降られたりするとテンションが上がるんですよね。ずぶ濡れになってるんだけど可笑しくって、ゲラゲラ笑って、心の底から清清しくなったものです。
なんてことを思い出す若くない私は、アカシヤの雨に打たれるのみ。



馬場あき子『鬼の話』(ちくま)を三分の二ばかり読んだところ。
興味のあること、知りたいことの満載で、つい時間をかけて読み返しつつ進んでいます。
研究書のたぐいとして読むと、この作者さんやたらと情熱的すぎないか、と思うところが多々あって、それはそれで面白いわけですが。
まつろわぬ人々の歴史がからむ鬼の形成は、なるほど難しい。
妖怪として細分化する以前の「もの」のけ、荒ぶる神、そういったものすべてが鬼であったともいえますし。
とはいえ、鬼について書かれたことのうちではやはり、奥瀬サキの漫画『支配者の黄昏』における茨木童子の「鬼を人が内在するようになり、人は鬼を捨てた」という語りを忘れることができません。
むかしと変わらず今もまた、究極的にはひとつの救いのように、人は鬼に変じることはできると思います。けれど現代、鬼と化した彼ないし彼女は、ただ孤絶して凄惨さに身をゆだねるだけ。引き受ける巨大で混沌とした幻想は、ほとんど希薄です。それでいて不安や恐怖の総量はかわらないんだから、始末が悪い。文明は発達したけれど、暗がりを前にした人の体と心のポテンシャルは、百年前、千年前とくらべて変わっているとは思えないのだから。
どこまで行っても人間しかいない世の中だなあ、と息苦しく感じるのは、私が薄っぺらくて臆病だからだと思いたいですね。
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by sarok | 2012-10-07 08:53 | 雑記 | Trackback | Comments(0)