四畳半東雲蚊帳の内

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特撮博物館

少し前になりますが、現代美術館で開催中の『特撮博物館』に友人らと行ってきました。
館長・庵野秀明ということで、特撮の歴史を振り返る堅実で詳細な展示、というよりもより見せ物としてうまくプロデュースされている内容でした。
とはいえ、相応にマニアックなシロモノもあり、特撮の発展を支えた「名手」たちやその技術の紹介もあり。
黎明期、ウルトラシリーズ、ヒーローのお面ばかりの部屋……。テーマで分かれているのは、とてもわかりやすい。美術倉庫に見立てたセットに、ミニチュアモデルから撮影機材までごっちゃに展示してあるエリアなども、工夫をこらしています。延々モデルが並ぶだけだったり、やたら解説だらけだったりしないのは、さすが。家族連れはもちろんですけれど、世代なんでしょうねえ、私よりも歳が上な男性はもちろん、年配の女性なども、それぞれ自身に縁のあるモデルや映像に楽しげに見入っていたりします。
この展示、ハンドバッグ程度の荷物も持ち込めないのですが、入って納得、マニア垂涎の品ばかりなのは私でもわかります。小さな模型や機材も、多いですしね。
そして目玉はやはり、ショートムービー『巨神兵東京に現わる』。
全体の展示の、ちょうど真ん中くらいでこれを上映するスペースがあるのですが、一貫するテーマのひとつの突起としてこの映像があるのを、周り終えると理解できるのです。
映像そのものは短く、興味のある人は見てくださいとしかいえないものですが、大掛かりで緻密な、隙のないものを期待しているなら、まず違った印象を受けるでしょう。
CG等駆使した最先端の、なんてものからは真逆です。そういうものじゃない。
かつて先人たちが試行錯誤しながらあみだした、「特撮」の技術。今は失われつつある幾多の想像力の結晶で、このムービーは出来ているのです。
「ホンモノにしかみえない」近頃の映画(海の向こうの)のすごい映像とは違い、「特撮」はホンモノらしく見せているけれど、それが模型であるとか、写真であるとか、着ぐるみであるとか、すぐにわかります。単に緑に塗った板だけれど森だと思ってね、という、舞台のセットにも通じるお約束の発想。
一方的に提供され、没入するだけではなく、こちらからアプローチする必要があるのです。ホンモノとして重量感、巨大感を最終的に追加するのは見ている側だという。もちろん、よりよい想像力を搾り出すために製作側は工夫を凝らすわけですが、相互の関係あって成り立つ迫力、緊張感は格別の意義があると思うのです。
でもって、小さな子供は単純にホンモノだと信じていたりして。そんな彼らを羨みつつ、大人は大人の愉しみ方があったりして。
「ホンモノにしか」感じさせないための技術を否定するわけではありません。むしろ、そういった迫真の映像がつくられるようになったからこそ、「特撮」の持ち味があらためて見直されてしかるべきなのではないか、と思うし、思ったわけであります。



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唯一の撮影許可エリア。前述のムービーのためつくったセットの一部? がまるごと展示されています。たくさんの人が中に入って、カメラやケータイを縦にしたり横にしたり、思い思いの一枚を模索しておりました。

現代美術館という場所であり、大勢の家族連れもいたせいもありますが、いわゆるマニア~な方々はそんなに目につかなかったような。
私の近くにいかにもオタク然(人のことは言えませんが)とした青年がおりましたが、彼はずっとニコニコ楽しげにモデルに見入ったり、随所に貼られた庵野氏の解説メモに目を通したりしていました。その印象が、とても明るくてさわやかなんですよね。
平生日のあたらないものが、陽光のもとで手足を伸ばしている。なんだか、そういう健やかさを感じる展示でもありました。
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by sarok | 2012-08-30 15:41 | 写真 | Trackback | Comments(0)

読書もする夏

なんだか延々と体調がよくないぜ。実家での規則正しい生活と栄養満点な食事が、よくなかったか(笑
毒性生物になったような感慨ですが、いい加減若いころみたいな生活態度をつづけていくのは無理があるなあ、と思う機会ではありました。
さて実家に戻るとお定まりの「何を食いたい」ではありますが、わたくし思わず「苦瓜」と。
つまりゴーヤですな。東京でもまあ手に入りますけど、やっぱあっちの方が安くて大きい。
チャンプルーをつくっていただけました。旨い、うまいんだけれども、なんとなく記憶にあるより全然苦くないような。
昔とくらべると実際苦みが弱くなってるらしいのですが、こっちの舌も変化したということですかねえ。


なにしろ急のことで、道中読む本なども持たず帰省していたのですが、父親が枕元に積み本してる中から適当に選んだ本が、なかなか当たりでしたね。
米澤穂信『犬はどこだ』は、滞在中に一気に読み終えました。
病気をきっかけに人生のエスカレーターから降りた主人公、ってのはそう珍しい感じでもありませんけれど、なんかすんなり入り込めて、気がつくと時間をみつけてせっせと読んでおりました。葬儀や何やと、己の低出力なコミュ力を奮い立たせる時間を離れた深夜に、ひとりひっそり熱中するのは、楽しかったですね。
それから、帰りは鉄道を使ったのですが、そこで読んでいたのが宮脇俊三の『失われた鉄道を求めて』。
これもなんか、面白い。読み始めは、「鉄」の関心ばかりが優先的で、土地や人やその他もろもろへの意識が淡白すぎないかと思っちゃったんですが、だんだんとその、著者の考えの振幅みたいなものがわかると、彼が廃線をとおしていとおしんでいるものがなんなのか、わかるような気がしてくるのです。
自分なりのメッセージを「こめる」というのはどういうことなのか、考えさせられます。
でもって今は三冊目、平岩弓枝の『聖徳太子の密使』を読み出したところ。聖徳太子の娘が男装の麗人となり、南方への船旅に出るのですが、おつきの三人の少年は実は猫。それぞれ、魚を焼いたり舟を漕いだり、弓を射たりしてハンターを助けます!
それってモンハン?
オトモアイルー?
と、思ってしまったのはたぶん私がはじめではないと思う(笑
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by sarok | 2012-08-16 08:11 | 雑記 | Trackback | Comments(0)

四年に一度

オリンピックにおける商業主義の蔓延が問題視されるわけですが、現実的に多くのスポーツはやっぱりお金がかかるんだろうな、というのは正直なところであります。
しかしモノがスポーツの祭典である以上、スポンサーは建前ってやつを看板として手放すべきではないと思うんですがね。
順序の問題です。はじめにお金ありき、商売ありきではない。あくまでも、先頭に置くべきは日夜鍛錬してきた一流の競技者であり、そのパフォーマンスである、と。
彼ら彼女らが国を代表して集まり、鍛えぬいた肉体を駆使して技をみせる。力をみせる。それを見物にたくさんの人が集まってくる。なら、そこで出店を出して商売させてくださいよゲヘヘ、ってのが本来の構図でっしゃろ、と。
商売=卑しい、などとは言いませんけど、テレビ番組のスポンサーなんかにしても、そこになんらかの価値を創造するうえで、お金を出すというのは分業のひとつでしかない、という慎みがもうちょっとあってもいいんじゃないかなあ、と常より感じているところではあります。
お金は直接お皿に盛ってわれわれの血肉となってくれるわけではありませんからね。
しかし、オリンピックにあわせて拝金主義などと言葉を持ち出すと、二重の意味になるところがオカシイ。


四年に一度しかテレビで見ない、というようなたぐいのスポーツも多く見ることができるのがオリンピックのいいところですが、ルールや採点システムがなんもわからんというのに、見ているとそれなりに面白かったりします。
鍛えられた肉体が目的に向かって躍動する姿は、それだけで「見世物」になりうるらしい。
ただ近頃、スポーツ観戦にてだんだん新しい楽しみが生まれてきつつあるように感じています。これははっきりした感覚ではないのですけれど、アスリートたちの身体の「動き」に感情移入する瞬間がある。
もっと具体的には、筋肉の動き、というべきか。競技者の肉体の動きが、自分の神経のどこかに直結して、彼らが飛んだり跳ねたりするその体が感じるであろう、空気や水の抵抗感、肉体に戻る反動みたいなのが、擬似的にダブって届いてくるときがある。
言い方はアレですが、ゲームしてるみたいにね。
もちろん、実際に選手の感じるものとは程遠いでしょう。でもその連続感はなんだか官能的でもあります。
これも齢のせいかとも。若いときほど自分の身体が自在でなくなっているから、逆に他者の身体の動きに自分を重ねる感性が発達するのかもしれませんね。
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by sarok | 2012-08-07 05:11 | 雑記 | Trackback | Comments(0)